佐原の名主でもあった伊能忠敬 なぜ多くの人々から支持を得たのか
知られざる顔に迫る②
■忠敬のリーダーシップが分かる3つの事件
・佐原邑河岸一件
佐原の河岸で営業する問屋に運上(税金)をかけるという、幕府の政策が持ち上がった。忠敬らは村を代表して勘定奉行との折衝に当たり、賦課されないように努力したものの、問屋が営業を続けるためには幕府公認の業者となって、税金を支払うしかなかった。
そこで忠敬と同族の2人が公認問屋の申請をしたのだが、別の業者がより多額の運上金を納めるとの触れ込みで申請してきた。忠敬はこの業者の身辺を洗い、問屋の業務経験も支払い能力もないことを奉行の前で証明し、無事に公認問屋として認められた。さらに課税額についても、克明に記録した過去の荷の取り扱い量や手数料を基に、適正な課税を奉行に求め、当初よりも低い金額に抑えることに成功した。
・天明の大飢饉
天明の大飢饉は「江戸四大飢饉」と呼ばれた中で、最も被害が甚大だったとされる。そんな未曾有の大災害に対して、忠敬が取った方策は①農民に種籾や緊急の食糧を貸し与える②飢餓に陥った非農民は優先的に救済する③佐原に流入する放浪者には、食糧ではなく金を与え、佐原から出て行ってもらう――の3点だった。
また、飢饉によって、資金不足に陥った質屋に休業が相次いだのに対して資金を融通するだけでなく、非常時であることから通常では質草にならないような鍋や釜なども低利で抵当として取るよう要請することも忘れなかった。米価高騰で米が仕入れられなくなった米屋にも、手持ちの米を安価で渡し、値上げせずに売るよう求めた。これらの方策によって、被害を最小限にとどめが、忠敬が拠出した資産は莫大なものになった。
・牛頭天王の山車事件
当時、佐原で一番大きな祭りといえば牛頭天王祭礼だったが、明和6(1769)の祭りの際、伊能家の本宿組と永沢家の浜宿組との間で、どちらが先に山車を繰り出すのかで揉めたのだ。忠敬は永沢家と相談して、お互い勝手な山車の出し方をしないよう申し合わせたのだが、浜宿組が約束を破り、山車を先に出してしまった。
これに収まりがつかないのが本宿組。永沢家の当主がいくら謝罪しても納得せず、本宿組も山車を出すと言って聞かない。しかし、本宿組まで山車を出してしまえば、両者が衝突して怪我人が出るのは必至。これを恐れた忠敬はその場を収めるために、永沢家に義絶を言い渡す。永沢家としては格下の伊能家に義絶されるなど不名誉なことなので、撤回を求めたが、忠敬はリーダーとして本宿組の意地を通すために、心ならずとも義絶を貫いたのだった。
〈雑誌『一個人』2018年6月号より構成〉
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